マラソン随想
23年前、そう私が42歳でした。この短躯で70kgという超肥満体。医者から、このままだと早死にするぞと脅され、渋々ダイエットを始めたが、好きなビール・ワインを断つぐらいなら死んだ方がいいやってことで、ダイエットなるものは中止。
 ある日、書店で好きな「食いもの」コーナーで物色中「サーロイン症候群」なる本を中味も見ず購入。よくよく読むと、この本実は「食いもの」の本ではなく、現代人の筋肉は霜降り状態。いわばサーロインそのもの。これをテンダーロインにするには毎日少しずつでもいいから走りなさいって言う内容。当時は、「目から鱗」でしたね。
 早速、大枚2〜3枚叩きジャージ・シューズ購入し準備万端。翌朝、颯爽?とはいかず2〜300mでダウン。5kmジョグ出来るまで半年近くかかりましたね。そして、何と10ヶ月後、無謀にもホノルルマラソンに出場。10km以上走ったことのなかった私が、何と3時間41分52秒で完走。今みたいに「ランナーズ」等もなかった時代ですから、早いのか?遅いのか?まあ、こんなものかってな具合。ところが、帰りの機中で郷 ひろみに3分負けたことが判明、変なところで悔しさの焔が爆発。翌月の「指宿菜の花マラソン」で3時間23分24秒。体重も55kg、そして、また何と無謀、即「第2回全日本トライアスロン宮古島大会」にエントリー。実は、慌てん坊の私「カナヅチ」だったのです。すぐ、スイミングスクールに入校、乳幼児クラスから3ヶ月後の大会前にやっと500m泳げるようになり、OBS等の記者を連ねて、いざ宮古島へ・・・。やっぱり駄目でした。完泳しましたが、肺が溺水状態でドクターストップ。担架に乗せられ救急車でのリタイア第1号でした。
しかし、このままでは終わらないんですよ。5ヶ月後の「第2回アイアンマンジャパン琵琶湖大会」において11時間42分24秒で完走。ハワイの本大会の出場権を獲得したのですが、ここに大きな落とし穴が待っていたのです。数十万かけて特注のロードレーサーを買ってやまなみハイウェイを試走中、落車転倒、頭蓋骨骨折、鎖骨骨折、下顎骨折。救急車でたらい回しの挙句の開頭手術。3か月目に意識回復。この時、臨死体験をしましたよ。
半年間、右半身麻痺の車イス生活。病院のリハビリが信用できず、自分で作った1日14時間の猛烈なリハビリ。本当に奇跡的と言われる回復力でしたが、1年足らずで医者に内緒でホノルルマラソンに出場。3時間57分13秒とサブ4。さすがにこの時だけは、女房連れでした。
医者からトライアスロンを禁じられ、それならとウルトラの世界に没入したのです。
以来、フルは40回。100km以上のウルトラは、サロマ3回、阿蘇10回を含め16回完走。変わったところでは、別府から熊本までの140kmナイトラン。あるいは、24時完走で180kmとか、また、県内一周駅伝と同コースを同日程で完走。初日は、佐伯の重戦車前田宅で一宿一飯のお世話になりました。
海外のレースでは、ボストンや万里の長城。また、カナダのビクトリアでの100kmの国際大会では年代別2位。キラウエアでは、溶岩のすぐそばを走り、フリークライミングをしながらの完走でした。
惨めな経験では、アメリカのネバダでのウェスタンステーツ100マイルラン。前年には、ランナーの一人が、クーガーに噛み殺され、ガラガラ蛇もでる。3000m近いピークから一気に40℃の温度差のある谷底へ、川を渡ったり、すざましいサバイバルレースでしたが、私は鎖骨骨折をし、53km地点で初めてエイドを見た途端、失神とお粗末な結果でした。
昨年2月横断歩道を歩行中、暴走して来た車に撥ねられ、下腿複雑骨折、現在まだ走ることが出来ず、ウォーキングのみ。ただ、並みのウォーキングでは物足りず、パワーウォークやレースウォーキングにはまっています。
歩く魅力にとりつかれ、この秋には南仏からピレネー山脈を越えて、スペインのサンティマゴまでの8〜900kmを寝袋を持って1か月で歩くエルーカミーノに行く予定です。帰ってからは、思い出のホノルルマラソンを5時間で歩くつもり!!

タイトル 「思い出すまま・・・」                               岡 万寿雄

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